深谷市郊外の尾高惇忠生家の公開 1
深谷市郊外の尾高惇忠の生家公開 2

この尾高家はこれまで非公開でしたが、この度深谷市の文化財指定となったことを機に、特別公開されたのです。
中は重厚なけやき造り。当時の富豪の家であったことが人目でわかります。
当日はひ孫の尾高新吾さんが内部のことを解説してくださいました。
尾高の家は半農・半商で、「油屋」という屋号で油の小売や藍玉の卸をしていたことは知っていましたが、この「油」、私は食用油かと思っていたら、灯り取りの菜種などの油で、明治になってからは灯油ランプ用の灯油を商っていたとのことでした。
尾高敦忠は幕末期には渋沢栄一の教育係・相談相手として渋沢を通して明治の近代化に大きな役割を果たします。
維新後は実業の道を歩んでいます。
明治6年に国営富岡製糸工場が開業しますが、当時官吏だった渋沢栄一の推挙で尾高がこの工場開設の責任者となります。
土地の買収や建材の準備から一切を仕切り無事工場を完成させると、初代工場長に就任、開業3年目には単年度の黒字化に成功しています。
教育者としての知識と商家で磨いた経営センスが花開いたといえましょう。
深谷市郊外の尾高惇忠生家の公開 3

今から150年前の安政元(1854)年、徳川幕府がペリー来航により鎖国を解くと、尊皇攘夷の声が日本各地から沸き起こります。
鎖国を始めて200年以上経ち、人々の頭の中には異国(外国)と関わるという概念も発想もありません。
国を開き異人(西洋人を指す)と交易を交わすという幕府の施策は、当時の多くの人々には常識外の「暴挙」に近い行為と映ったのです。
(現実の問題として北東アジアが鎖国の眠りにつく中、西洋では産業革命を経て産業・文明・軍備の急速な改革が進み、軍備について彼我の差は覆いがたく1940年には清国がアヘン戦争で敗れているという事実があった。開国は正しい国策であった)
皇室が開国拒否で攘夷の実行を望んでいるという噂が市井に流れると、下級武士が中心となった倒幕活動へと展開していきます。彼らは長年、世襲の積弊に苦しめられてきましたからこの天下の変事をチャンスと命を賭けて動き回ったのです。
この倒幕の熱気は、士農工商の身分制度に理不尽な思いを抱く農村の若者にも伝播し、惇忠・栄一師弟も国事の議論を交わすようになります。
やがて近在の若者も巻き込んだ倒幕計画が練られ、その第一弾として文久3(1863)年の冬至(当時は旧暦で文久三年の冬至は11月12日)の夜に高崎城を襲撃することが決められたのです。
栄一は先頭に立って精力的に襲撃用の武器を集めました。そうして徒党も揃った10月29日の夜、この尾高家の二階で高崎城襲撃の最後の評議が始まります。
その戦術は栄一が子供の頃親しんだ里見八犬伝から想を得たものだそうです。
この評議の場には京都から手計に戻ったばかりの惇忠の弟長七郎がいました。
彼は十津川浪士の挙兵から七卿落ちまでの倒幕活動失敗の顛末を見聞していましたから「これは単なる百姓一揆として簡単に鎮圧される児戯にも等しい愚挙だ」と、体を張ってこの襲撃を押し留めたのです。
襲撃が予定通り決行されたならばその後の栄一の活躍は恐らく無かったでしょうから、この日のこの家はいわば歴史の転換点となった場所といえましょう。
碓氷峠と深谷のレンガ工場 1

▲2006年6月撮影 深谷の日本煉瓦製造工場
埼玉県深谷市郊外に渋沢栄一らにより創られた煉瓦工場は、明治20年より操業をはじめ、ここで生産した煉瓦は東京駅や迎賓館、法務省旧本館など明治期の数多くの名建築に使われました。
明治以前の伝統的な日本建築は紙と木などで出来てますから、煉瓦という建材が一般に使われるようになったのは明治以降のことです。文明開化の代名詞とも言える煉瓦建築は、建材である煉瓦の製造からスタートしたのです。
しかしこの煉瓦工場は操業から数年、需要不足から経営不振に陥り何度も追加の増資により持ちこたえたのです。
明治24年碓氷鉄道工事が始まると、この工事に使う煉瓦を全量納入することになって経営はようやく軌道に乗り、輪窯も次々に増設され工場はやがて全盛期を迎えました。






